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すべての虚飾を捨てた人間の姿に感動

- 92歳のチン・クイさん(左)の表情に感動
「胡同(フートン)の理髪師」(8日公開、アニープラネット)
人の顔がこんなにも感動的だなんて、めったにない経験だった。美人女優でもイケメン俳優でもない。だけど1時間45分見続けて、飽きるどころかその表情が心の奥底にまで焼き付いてしまった。北京の下町、胡同で理髪師をしているチンさん。実に93歳。実際に撮影時92歳だったチン・クイさんは12歳から理髪師をしてきた本物である。ドキュメンタリーではなく、劇映画の堂々たる主演。「枯淡の境地」を目の当たりに出来たことに感動した。
チンさんの周囲は時が止まったようだ。胡同の古い家に1人暮らし。窓から差す朝の光。1日に5分は遅れるけれど今もコツコツと時を刻む振り子時計。チンさんに寄り添うような黒い猫。静かなたたずまいの中、すべてを乗り越えてきた人間のさりげなさは、時にユーモラスでもある。
理髪師の腕前は一級で、古くからの友人がやって来る。常連客が家で倒れると、三輪自転車で出張もする。なじみ客は「たくさん(金を)取ってくれ」というが、チンさんは5元しか要らない。金への執着などない。たったひとつの趣味の麻雀も頭の体操だし、失業中で長男夫婦ともめている息子のグチももはや遠い出来事でしかない。胡同は取り壊しが近いが「そのころには火葬場の煙になってる」と表情すら変えない。
小津安二郎監督の名作「東京物語」で、名優・笠智衆が実に枯れて穏やかな人間像を演じ、小津の名とともに世界の映画人の絶賛を浴びたが、チンさんはその30年後ではないか? 達者に自転車を乗りながら去っていくチンさんに、すべての虚飾を捨てた人間の姿を見た。【安永五郎】